家系図E (南北朝〜)戦国時代

 

----義班…胸形衛太正和三年寅三月八日
正和元年=1312年 ※1333年 鎌倉幕府滅亡。1334年 建武の新政
 ※1336年=延元元年、大宮司氏範、(筑前国守護)少弐氏の輩下として足利尊氏を助ける。  尊氏 多々良浜の戦いに勝利(むなかたさまp.92、166、市史通二p.370〜、403、415他)
※1338年 足利尊氏、室町幕府
--┬女子…二人 吉田次郎兵衛 某室  │  ├惟深…胸形大事。熊野権現社務職  │ 正平三年子三月八日  │  └道弘…称形六郎 福庄河西郷
正平元年=1346年:室町時代
 Cで出てきた熊野権現。何故そーなったのかは前文参照  でも、武士から神職って普通のジョブチェンジじゃないですよね。  (神職兼武士の一族が、お城の在る土地に。だとすれば此の人事異動の時期は……) --義清…胸形少輔 宗像朝臣弘和三年十一月十八日
弘和元年=1381年
--義長…胸形 兵部 太夫熊野権現社務  『宗像市史』通二p.453、  宗像氏は建武2年(=1336年)2月1日、足利尊氏から赤馬庄地頭方を安堵認められた。  ※この時期には、惟深が村山田郷に居た、か行った。  そして義長の代までは、取り敢えず「赤馬(庄)」に関する表記は無い。  応永8年4月4日、九州探題渋川満頼が、赤馬荘領家方を宗像社家に預け置いた  応永20年(1423年)時には本所は持明院統、領家は速成就院(京都東山太子堂。律宗大寺末流)の支配。    32年七月4日、太子堂から伏見宮家に赤馬庄天役を進納した        (のが領家方の赤馬庄支配に関する最後の史料)  惟隆の時代、明らかに被る。  既に赤馬庄には代官が置かれ、代官請負が為されていた。大内家の家臣だったと思われる、と言う。 --┬惟隆--------------------------------------  │ 胸形民部少輔 赤馬庄領主  │ 寛正六年酉九月廿八日  │  ├惟政-------------------------------------------  │ 胸形 治部 太夫  │ 應永廿二年宗像六十代宗像氏俊するはあたへる事  │ 【家臣の位をもらったのか、家臣=部下を与えられたのか。】  │ 食邑十二町 村山田郷  │ 寛正六年酉十二月十二日  │  └女子…二人 深田和泉氏沼部神兵衛正勝
応永元年=1394年。応永22年=1416年 寛正元年=1460年。寛正6年=1466年
 食邑しょくゆう…大名・小名の領地  ※応永は南北統一後の元号。  『宗像市史』通二p.440、氏俊(室町時代)からの系譜が在る。  隣の「宗像系図」のマークは見覚えが在るけれど、六十代と書かれているのは氏経である。    ※1361年、南軍(宮方)の懐良かねよし親王大宰府に入る。  北軍側の宗像氏直が蔦ヶ丘城で討たれ、氏俊が白山城を守り抜く。  大宮司氏名うじかたが宮方に付き、宗像氏内は内戦状態(『宗像市史』通二p.385〜、391〜、421)  あと、菊池氏が豊後高崎城を落として大友氏時(肥後国に守護)を討っている。  周防の大内氏:『むなかたさま』p.93、『宗像市史』通二p.396、438、442〜、519〜  長門の厚東氏との抗争の際、厚東氏&大宰府(南党)となったので  宗像氏も豊前に向かったのがキッカケぽい。  また足利義満の命令で、大内義弘が九州に渡海。(1399年、筑前・豊前も含む守護)  約200年ぐらい大友氏の勢力と対立する構図になるが、弘治3年(=1557年)に滅亡する。  宗像氏はやがて大内氏の方に付くが、大宮司の職を巡る時など、双方に分かれて戦い合う。
※1392年 南北朝合一
 ※宗像合戦の一方で、辺津宮にて盛大な祭礼が行われていたのがこの時代。  海上では南朝水軍との戦いの後、(前期)倭寇、それから朝鮮との貿易を積極的に。  (『むなかたさま』p.93〜、『宗像市史』通二p.393、416〜、427〜、478〜、509〜)  ※通二p.453より、当時の赤馬庄ほかの詳細が書かれている。縫殿宮についてはp.474
※1404年 日明貿易が始まる
 

※1467年 応仁の乱
惟常…胸形民部太夫熊野権現社務八並村るは五町八反
 │ 天文二年三月廿七日
 │
 ├惟宣…胸形兵部助 宗上村
 │ 十一社宮 被補社務 食邑三町五反
 │ 天文五年十月廿八日
 │
 ├惟景…胸形治部允邑食三町五反宗上村
 │
 └女子部 源次郎
天文元年=1532年。天文5年=1537年
 ※「八並」の語源は矢集で、奈良時代の宗像地方では箭を製作していたらしい、  地名の八並は現在も、(旧)宗像郡以外にも何箇所かに在る。(『宗像市史』資一。通二p.165他)    惟頼大和三郎衛門---------------------------┐  │ 永正十年 宗像刑部少輔正氏すは臣と為るるは十五町 │  │ 木村移住るは大和         │  │ 永禄二年三月十四日             │  │ 惟隆の死から94年後。古代じゃないし、有り得ない。  │  │                         │  ├惟則…大和るは家臣家臣と為る-- --      │  │                         │  ├--------------------------------------------------┘【惟頼の子が惟資?】  │  └惟資大和女允    宗像七十九代宗像郎氏家臣家臣と為るるは四町     木郷    永禄十二年三月十四日 立花宗像 秋    惟資軍功アリ依テ 壱町五反    慶長八年十二月十八日七十五歳    ※此処での「秋」は地名の可能性が在り、現在の赤間その他らしい。(宗像市史通二p.180)
永正元年=1504年:室町時代。永正10年=1514年 永禄元年=1558年。永禄12年=1570年
   ※1589年=永禄12年 3月18日 毛利元就、占部貞保の奔走をたたえる(『宗像市史』史料編第二巻p.582) 5月18日 宗像勢、毛利氏とともに大友勢と立花城下で戦う
※1573年 織田信長が足利義満を追放し、室町幕府滅亡  1586年 豊臣秀吉が大政大臣となる。1587年 九州平定 1603年 徳川家康、江戸幕府 慶長元年=1596年:江戸時代。慶長8年=1604年
 此処で大和に改性。短い。  『市史』通二p.653(←『宗像記』)に拠れば天正15年(1587年)、  九州平定後の豊臣秀吉の凱旋の際、占部(中略)貞保が国境まで来て  大和吉右衛門ほか三十余人が道端で出迎えた事が書かれている。  史料編第二巻p.727、占部家系伝。  ただ史料編第二巻に拠ると、宗像地方には清氏(平安時代)の頃から既に大和姓が存在。  まー正確には惟頼が何々衛門か不明だし、  左近尉や采女允と言うのは役職なので、同じ表記でも同一人物とは限らない。  もー位も低いし、何百人何千人も居る中でソウ記録が残っている筈も無い。  一周回って、そういう結論。  ※正氏は1500年または1512年から、1547年または1551年。永正10年には14歳または2歳ぐらい。  氏貞は1545年生まれ、永禄12年時には35歳ぐらいである。  同世代の惟常・惟宣が1534・37年の死亡なので、  惟頼の父親または息子の情報が、惟頼と混ざっていると考えるのが妥当かと。  『市史』史料編第二巻p.583、3月18日付で書状が在り、  それより前に「毛利家ヨリ立花へ人数ヲ指向ラルノ時、先手ノ御勢ヲ、許斐ノ城ニ入テ」  「吉原ノ里城ヲ堅メ」(宗像記追考)、「毛利勢立花城を囲む」(占部家系伝)と  各地に跨る戦いが在ったらしい記録が在るので、日付的に言って其の時の事かと。  (他にも戦いが在った記録が在るが、元々立花城を巡っての戦闘は多い。)  p.647、豊後の緒方氏の情報として、 大友宗麟が緒方衆中・斉藤内蔵允へ向けた書状(永禄12年12月)の写し。  p.(756、)760 宗像郡内の緒方氏か、緒方又次郎、1581年の宗像氏貞vs戸次道雪。  惟資:1604年頃に75歳なら、生まれたのは1529年ぐらい。1570年頃には34歳ぐらい。  普通に線の引き間違いか……と思ったら、弟を養子にする事自体は戦国時代には在っていたそうだ。  でもヤッパリ年齢がなァ、とか考えてたら微妙なモノが出てきた。  ⇒大和氏in宗像について:『宗像市史』史料編第二巻

 

----和時大和勝九郎
   和時幼年シテ宗像氏貞家臣トナリ山城勅番 
    赤馬庄町五反  
   天正十四年四月六日 氏貞逝去和時食邑 楢木郷
   同五年 小早川隆景ぜられて粕屋郡名嶋
    和時小早川殴酉馬督トナリ邑三町八反
   隆景養子金吾中納言秀秋トナル(が、)政道正シカラスシテ前後解任される
   慶長年黒田長政父子當國トナリ和時殴酉   天正十四年四月六日 氏貞が逝去シ和時は食べる邑〈住んでいた村〉を離レ 楢木郷に歸ル
   同五年 小早川隆景が封〈任〉ぜられて粕屋郡名嶋ニ移シ給シ故、
    和時は小早川ノ馬殴酉〈馬督〉トナリ邑三町八反ヲ賜る
   隆景ノ養子の金吾中納言秀秋ノ臣トナル(が、)政道正シカラスシテ筑ノ前後ヲ除ウル〈解任される〉
   慶長年ニ黒田長政父子が當國の主トナリ和時は馬殴酉が學〈学ヲナス
   折節 元和元年正月 豊臣家ノ臣の櫻間主殿頭正勝が當家に来たリ、馬殴酉ノ學ヲ傅〈伝〉授ス
   櫻間氏が當 家ニ逗留スル事 三年後、肥前國の鍋嶋家ノ臣トナリ
    其の時の口授傅授が書令ニ於 テ當家ニ蔵ス
   慶安三年庚寅八月十三日 和時が行く年は七十九歳の卒 
ナス
   折節 元和年正月 豊臣家主殿頭正勝當家殴酉
   櫻間氏 逗留スル事 三年後肥前國鍋嶋家トナリ
    口授傅授 當家
   慶安三年寅八月十三日 和時七十九歳 
天正元年=1573年:安土桃山時代、天正14年=1587年頃 慶長元年=1596年:江戸時代   元和元年=1615年、慶安元年=1648年
 岳山城だか笠山城だか分からないが、  『宗像市史』通二p.601〜で名前が在るのは岳城、白山城、冠山城など。  氏貞の死亡時期・年に関しては『週刊 日本の神社 宗像大社』p.16、『むなかたさま』p.93、166。  『市史』通二ではp.533他、天正14年3月4日、蔦ヶ岳場にて病没。  ただし当初は秘されて、遅れて4月6日に卒、という事にされていた。(史二p.899〜「宗像大官司代継」他  ※氏貞は大友氏との和議の後、神社の修復や再興といった事業を行う。(通二p.528、530)  大友宗麟は薩摩発島津氏との戦いで、豊臣秀吉を呼び寄せた。(p.534)  (『むなかたさま』ではp.44と93、95に↓の情報も含む)  通二p.654、p.657、小早川隆景は天正15年6月に筑前国立花城、  16年2月から海辺部の名島に名島城を築城。。  ただし文禄4年(1595年頃)11月に備国三原に隠退、慶長2年(1597年)には死亡する。 p.708、名島城は多々良川の河口北岸から博多湾に突き出た半島に在り、元は立花城の山城。  p.675〜、小早川秀俊(秀秋)について。秀吉の妻の兄の五男で、  羽柴秀俊を名乗っていたが、結局は隆景の養嗣になる事に。  豊後国三原で婚礼を挙げ、文禄4年(1595)9月、名島城に下向。  若い(12歳)ので家臣団が検地などを行い、  秀俊自身は朝鮮出兵への参加など、居ない事が多かった模様。  また宗像社領は隆景の時代に200町とか、秀秋の時代にも社領の給与は行われなかったとか。  (p.660、695。797に『津屋崎町史』も参照)  p.679、「羽柴三原中納言」。だがコレは隆景の事らしい。  『津屋崎町史』通史編p.450に依れば、秀俊は金吾、または金吾中納言とも呼ばれていた。  秀秋と改名したのは慶長2年(1597)。  『宗像市史』通二p.701〜、黒田長政。福岡藩の初代藩主。  慶長6年(1601年)1月1日、名島城で家中諸志の年頭の礼を受けた。(p.704)  p.1081の年表では前年12月11日に筑前入国。  ※馬殴酉は二文字で「馬督」?    櫻間氏の詳細までは不明、現代では数が少ない方らしい。(by苗字ネット)  鍋島氏は肥前国佐賀藩の藩主。(Wiki) ----惟淳大和養三郎 八波める    寛文十二年子十二月廿七日 山岳斬峯雲外心居士     
寛文元年=1661年。寛文12年=1673年
※以降はどうやら仏教徒。
 神社じゃなかったのかと言われれば、日本は神仏習合の国で以下省略。

 惟淳の子和續(八波小右衛門)の代で

  元禄十四年 氏神十一社宮奉移
   小右衛門所在山林寄進
 和俊(八波三郎)の代で
   祖霊大和惟頼惟資和時三霊霊地
   神貴殿神社
 と在る。後は名前と卒日の記録。

 十一社宮は現在の日吉神社の事で、『福間町史』通史編p.1045に拠れば、元禄14年(1701)に日吉神社が古内殿から現在の笑尺へ移ったと、同社の棟札から確定できると言う。
 元禄11年に古座の座元を務めた八波養右衛門尉という人物が居て、他の連名者達も多くが八波姓である、という事から、
 「八波」という姓を持っている家は当時、此処の家系図以外にも在った、という事が結論付けられる。
 (此処に載ってる分だけだったら、当時は2〜3人しか居なかった筈なので。
  「大和」に変わった時と似たようなパターンかな??)


 ※日吉神社は「十社王子・猿王子社」⇒「山王神社」⇒「日吉宮」。




 ※父から聞いた話をまとめると、ウチは三代ほど前に子供が居なくて養子が家を継いだ後、その子供が別の八波家から嫁をもらったらしい。
 その実家が此のページの八波家かどうかは不明。

表記注:旧字や確信の持てない字・訳

 宗像氏との関連性はもう無くなったようなので、此のコーナーも終了する。


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