家系図D 鎌倉時代
※1156年 保元の乱、崇徳上皇vs後白河。  1159年 平治の乱、源義朝vs平清盛
 

--┬…大野郡司 緒方大弥次
 | 六條天皇仁安二年亥十二月
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 ├女子郎女
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 └惟保…緒方大七

   --惟家…緒方庄
仁安元年=1166年 寿永元年=1182年
 緒方姓開始。 --惟義緒方三郎 幼名 大大童 豊後國大野直入二郡大領   元暦二年三月 惟義筑前國遠河郡鹿筑前國遠河郡山鹿城にてうは平氏軍平氏軍を追い    平氏長門國れるは檀浦檀浦に逃れた矣   惟義するは梶原景惟義違えた景時に、惟義本國かえった   そののち 正治年二月 従言被於 鎌倉府 【?】   惟義扇谷一日ある日頼朝公る。惟義く「一子するは 市法師    日九州豊前豊後し、すること簇頭に為らざらんや    【日でなく曰なら、「どうして言わないだろうか(いや、言う)」】    今年十六しかしてめて大友能直豊前豊後豊前豊後(の判官と為る)べし   有然しかる女子女子が有るのれ、するは妻とするべし   惟義するべき(役)は中謀ナカタ   惟義けて之を承諾してく「宗像二十八代大領宗像大炊氏實二女二女を以って娶るべし   於是是に依り 頼朝公惟義り、本領豊後國大野直入賜二郡本領の豊後國大野直入賜二郡地を賞とするや    惟義本國   同三月 豊後國入府豊後國に入府できた    【直が脱字の場合、「能直が豊後國に入府した」】   惟義筑前國宗像郡き、氏實るは能直氏實の娘を以って能直に娶らせた   能直二男一女 てた   これ大友家元祖能直是人也この人なり
元暦元年=1184年 ※1192年 鎌倉幕府 正治元年=1199年
 『宗像市史』通二p.218(←平家物語)に拠れば、  寿永2年(=1183年)平家は都を大宰府に置こうとしたが、  豊後国の緒方維義が源氏に組して3万余騎で筑後に進出してきた。  平家は箱崎・香椎・宗像を経て、垂見峠→岡垣町内浦→芦屋への海岸砂丘→遠賀川河口、  右岸の芦屋町山鹿に在った山賀城へ。(p.308では山鹿城)  壇ノ浦の戦い;寿永4年=1185年、3月。  寿永3年=元暦元年。(ワイド版歴史資料集p.42、44)  大友能直おおとも よしなお:1172〜1223年。1199年には27歳  名前の一つに一法師丸。妻の名は深妙。Wikipediaの記載上、子供に能業と能泰は居ない。  建久7年(1196年)正月11日、豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向。   6月11日に豊後国速見郡浜脇浦より入国した。  承元元年(1207年)頃、筑後国守護。京と鎌倉を頻繁に往来しており、  建暦3年(1213年)の和田合戦では京六波羅に滞在していた。  頼朝落胤説の在る人物。  能直以降、大友氏は代々豊後国大野荘を中心に九州で勢力を伸ばす事になる。  前ページの大野氏は、此の大友氏に仕えるようになったとか。(Wiki←吾妻鏡、大分県史料ほか)  氏實については『宗像市史』史料編第一巻p.707〜、25・28・30・32・35代目大宮司。  俗字で氏実と表記する。  大炊ナントカと言うのは米・雑穀の収納と分配を司る機関、大炊寮の職員かと。←コトバンクより判断  緒方三郎惟義(惟栄これよし)については、惟基ともども本人なのか、同時代同地方に居た同姓同名者なのか、  よく分からないので置いておく。  ネット情報に拠ればこの当時、鎌倉扇谷おうぎがやつで幽閉された人物として、平家方の原田種直が居るそうだ。  (壇ノ浦の後に捕えられ、13年ののち赦され筑前怡土庄(福岡県糸島市あたり?)を与えられた)  惟義(惟榮)の父 惟用は、戸次氏の姓祖 大神惟澄(戸次惟澄)の父 惟家と兄弟、  なので緒方惟榮と戸次惟澄が従兄弟、という説も。しかし間違いであると言う。
 

--┬惟通…緒方庄司 宗像朝臣大野郡 緒方庄
 │
 │ --保義緒方太郎 大野郡領主- - - -
 │
 ├惟晴…緒方 兵部 
 │ 建保三年二月 大友右衛門次郎能泰宗像頭氏國養子と為り
 │  しかして宗像郡田嶋
 │ 惟晴侍童して童を侍せて 【惟晴が能泰の侍童として来たとも考えられるが、その辺りは疑問】
 │ 能泰俗名めてするは宗像氏能
 │ 同四年二月 るは宗像宗像の社務と為り田嶋片脇 
 │ 翌五年四月 宗家 大友能直長男能業早世した
 │ 依之之に依り 氏能辞社した社務職を辞めた
 │ 豊後國府内かえった
 │ んだ臼杵が、 った 【?】
 │ 是則ち、大友家るは臣と為る
 │
 └女子…二人
健保元年=1213年:鎌倉時代。健保5年=1218年 ※1221年 承久の乱、
 宗像氏国むなかた うじくに:平安時代末期から鎌倉時代前期、筑前国の鎌倉御家人であり宗像大社大宮司。  文治5年(1189年)に宗像大社大宮司に任じられ、  建久5年(1194年)と建暦3年(1213年)と建保6年(1218年)の三回に亘り同職に還職した。  氏能の名前は猶子の一人に。(Wiki/関東下知状(宗像大社文書)、ほか)  ※氏国の事は『宗像市史』通史編第二巻p.322、326他に出てくるが、  このページに在るような事は書かれていない。  氏能1については史料編第一巻一p.252〜、  「宗像宮社務次第」…大友判官能直息氏能(右衛門次郎氏能)  「訂正宗像大宮司系譜」…次郎 右衛門尉 ○右衛門次郎              氏能 母佐藤氏女 大友豊前官藤原能直次男 大頼朝公之孫  ほか、氏國の養子になった情報は在っても能泰、能業の名前はやはり見えない。  ※宗像氏の城については『市史』通二「宗像の城跡」の項にまとめて載っており、  p.595の年表によれば片脇城(1144年)、白山城(1182年以降)、赤馬城(1200年)の  最低三つが当箇所の時代には存在していた。  うち田島に在った片脇城の事はp.634〜に詳しい。 --┬-女子郡河西郷 室  │  ├榮道…緒方 主 殿 助仁沼三年寅七月廿八日  │  └義道…當郡河西郷吉田宮内助するは太郎
仁治元年=1240年
--┬秋友…緒方兵部助 文暦元年八月早世  │  ├道賢…緒方太夫文永十年四月當郡在自潟 在自潟においてつは蒙古賊  │ 道賢軍建治三年八月十四日  │  └女子
文暦元年=1234年
 ※建長3年(1251年)、氏長、神社を修復し、鎮国寺を建立す。  城を築いて太郎氏盛を許斐城、次郎氏範を片脇城、三郎氏正を西郷城に置き、  自身は城山上に居す(通二p.596他←『宗像軍記』)
文永元年=1264年。文永10年=1274年 建治元年=1275年
----惟寛…胸形 大太夫 宗像朝臣    文永十年在自在自においてにてつは蒙古賊     依として當郡 赤馬庄を、るは三十三町    應五年辰十月十八日
延慶元年=1308年。延慶5年=1313年
 何故か、今更「胸形」の表記。  赤馬庄地賜の話しと併せて怪しい。  『宗像市史』通史編第二巻p.331、文永11年6月の証文注進状とやらには  「赤馬庄分 田久村名田等二十町」、  前後して「赤馬荘田久村は(宗像)長氏個人の所領(私領)で、  この頃の赤馬荘は法金剛院領(p.333←p.298)」と書かれている。  ※文永の役は文永11年。西暦1274年、10月。元軍が博多に上陸(ワイド版歴史資料集p.42、49)  現地 津屋崎の記録では、文永11年5月、在自潟あらじがたに攻めてきた蒙古兵を討ち取り、  奴山郷に葬り供養に新原百塔を建てたと言う。  どっちとも食い違う訳だけど……。  記録に残ってないだけ、という観点から見れば、高麗を通して服属を求めてきた時から、  元が滅びるまで何回攻めてきていてもおかしくはない。(可能性だけはね)  弘安4年(1281年)5月から6月にかけて高齢軍が宗像の沖に留まっていた時の事を、  書き誤っているのだと言うのが『宗像市史』(p.341)その他の見解。


 
 各地この辺
 鎌倉府・扇谷は東方、現在の神奈川県の横浜に当たる。

 豊後國:大野郡は現在の豊後大野市とその周辺だが、直入郡は直入町大字神堤を除く竹田市の大部分、他。

 前千町後千町(後ろ干町前千町)はのちの千町無田らしい。
 黒木御所の朝日長者伝説(1300年前、欽明天皇の時代の郷司・浅井長治。豊後風土記など)で知られる、大分県西部の玖珠くす九重ここのえ町田野の飯田はんだ高原にある湖跡平地。
 (ネット調べ)
 
 20年前の地図だと直入の東10km程度の処に大野、其処から10km南に緒方、
 其処から約20km南西に在るのが祖母山で、その南15kmぐらいに在るのが高千穂である。

 佐伯は緒方から東へ約40kmの海岸そば。
 氣乃邑(庄)と府内は未確認、でも大野郡なんだから其の辺り。

 連も未確認だが臼杵は佐伯の北20kmぐらい、大野から東北東へ30kmぐらいの海岸そば。
 (前ページの通り、他にも高千穂を含んだ同名郡が今の宮崎県に在ったらしい)

 
 河西郷は『市史』通二p.467では田島など宗像社の南方と書いてあり、次ページの福庄河西郷と同一なら、p.466〜の西郷川下流の福満庄→「粕屋郡西郷福万庄」、宗像西郷に含まれる。
 (南方って言えば南方だけど、田島からは離れ過ぎてる。「西郷川下流」は5kmぐらい南東だし、今「粕屋」の名前を持つ土地は、其処から10kmぐらい南になる)
 p.580、宗像西郷飯盛山城主は河津氏。
 尤も地元人間としては、(旧)福間町上西郷の名前が先に出て来るんだが。同名地域でも在るのかな……

 Wiki(宗像郡・明治初年)に無い村、宗上村は前後の地名から、普通に八並村の北だと分かる。
 木村は『市史』通二p.820、慶長10年(1605年)頃の内殿村。正確には、その枝村であったらしい(by福間町史p.321)



表記注:旧字や確信の持てない字・訳


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