家系図C 奈良〜平安時代
※710年 平城京
 


----…外正六位上 宗像大領神亀五年六月
神亀元年=724年:奈良時代。神亀5年≒729年 ※743年墾田永年私財法(荘園の発生)。東大寺大仏造立の詔
----秋世…外従六位上 大領 宗像朝臣天平宝字七年辰八月
天平宝字元年=757年。天平宝字10年≒767年
  ※758年=天平宝字2年 七月八日 宗形若万呂の名が千手千眼并新索薬師響校帳にみえる              九月五日 神宮舎人の宗形若万呂が東寺写経所の装演として布施布を受ける    759年 六月十六日 無位宗形王に従四位下を授ける(宗像市史通二p.117〜、乳母が宗形出身の皇族)    767年=神護景雲元年 八月四日           筑前国宗形郡大領の宗形朝臣深津と妻の竹生王に、金崎 船瀬を造る功により位を授ける    771年=宝亀2年 十二月七日 筑前国の官員を廃して大宰府に属させる    778年 四月十四日 筑前国宗形郡大領の外征八位上宗形朝巨大徳に外従五位下を授ける    788年 二月二十二日 筑前国宗像神主は六年を任期とし、宗像氏の清廉で祭事に耐える者を選ぶ ----池北…外従六位上 大領 宗像朝臣暦十七年寅二月廿四日   池作とも。(Wiki)   『宗像市史』史料編第一巻p.65、通史編第二巻p.235、240。←『類聚三代格』巻七
延暦元年=782年:平安時代。延暦17年≒799年頃
  ※797年=延暦十六年 筑前国司を廃止し、大宰府に隷属させる    798年 二月二十四日 宗像郡大領兼神主外従五位下宗像朝臣池作が卒去し、以後の供祭を欠く        三月十六日 宗像郡大領は譜第の選を永く停廃し、才能の仁をこれに充てる        十月十一日 出雲国造と宗像神主が百姓の女子を妾り、神宮采女と称して妾とすることを禁じる          十二日 出雲・筑前両国の国造が郡領を兼帯し、百姓の女子を神宮采女と号して妻にすることを禁じる    800年 十二月四日 宗像郡大領が宗像神主を兼帯することを禁じる    809年=大同元年 筑前国宗像神社の封戸は七十四戸である(←『新抄格勅符抄』巻一〇)    808年=大同3年 五月十四日 大宰府官による筑前国の行政を停めて、守・介・・大少目を復直する              十六日 大宰府の監・典各二名を省き、筑前国司を復直する --┬深津…外従五位下 大領  宗像朝臣。当(家) 秋世ニ男  │ 日本記 く、筑前國宗像郡大領 兼 宗像神主との事  │ 右大宰府倆を解かれ大領補任する任ぜられる  │  曰く、によってねるは神主叙五位しかして 【?】  │ 建暦十四年三月十八日 みことのり各次第之云々大領兼神主外従五位下    宗像朝臣池北十七年二月廿四日神主ぜられていた  │ 即するは才能其の限り有る才能を有して  │  めるは郡を治めてまるは神主神主に留まりるは終身之終身この職に居て郡司終身之職ねるは之任事  │ 續日本記 廿六く、人皇四十八代 徳天皇の頃元年八月己  │  筑前國 宗像郡大領外従六位下宗像朝臣深津けたかった位は従五位下  │  無位竹生女けたかったのは従五位下  │ って るはること金崎なる  │ 【金崎=鐘崎の場合、「金崎に造った船瀬に応じて祝いを増した」or「祝う事が長く続いた」?】  │ ※前ページの阿智もそうだが、この辺は徳天皇が主語でも深津や竹生郎女が主語でも多分OK。  │ ※『続日本紀』卷二十六は、天平神護元年、西暦765年の一年のみ。  │  神護景雲元年は卷二十八。どちらも第四十八代 称徳天皇(Wiki)  │  │  竹生郎女。叙従五位下  │   Wikiや市史に拠れば竹生王たかふのおう。767年に降家した皇族  │   『福間町史』p.161では竹生王たかふのおおきみ  │  │ 『宗像市史』史料編第一巻p.60、通史編第二巻p.112、190、216、240(、247、569)  │ ※当ページの資料が正しい場合、深津が767年当時に宗形郡大領だったと解釈するのは誤りになる。  │  基本、国家などが作る歴史書は、各所から伝聞した事を、後からまとめて書き付けてる訳だから。  │  │  └秋税…宗像朝臣。當郡池田郷足白山 穴穂神社    --秋津…宗像朝臣足白山するは坊官當山、当山の坊官として七十二坊
建暦元年=1211年:鎌倉時代。建暦14年=1225年  延暦なら元年=782年、平安時代。延暦14年=796年頃 神護景雲元年=767年:奈良時代 ※794年 平安京。797年『続日本記』
 時代背景確認:790年に九州諸国で旱魃。  毎年の旱魃と疫病で、806年には百姓が逃亡し、大宰府内諸国の田園が荒廃したと言う。  835年になっても窮乏やまず。  朝鮮半島でも飢饉が続き、816年頃には博多湾岸に新羅の難民。  830年代の平安京とその周辺には群盗が横行……。『羅生門』の時代が来る。  (『宗像市史』通二p.246〜、268。ほか史料編など)
 

--┬秋足----------------------------
 │ 外正位上 大領宗像朝臣。弘仁四年己十二月廿八日
 │  難破なには安良女あらめ
 │
 │ 類國史く、天長四年三月 安良女叙位する位を授かる二級ぜられるは田祖
 │ 安良女父母して常杵  【?】
 │  朝夕また 十六いだのが宗像郡大領外正七位秋足
 │ 秋足して十六年  【?】
 │ 終志 本名節可喜 【?】
 │
 │ 『宗像市史』史料編第一巻p.72、74。通史編第二巻p.239〜、253
 │
 │
 └惟善-----------------------------------
   塩田 大太夫 豊後國大野直入二郡 領主
   人皇五十二代 嵯峨天皇ぜし 勅大野直入二郡領主

  此処から塩田姓に分岐……、かな??
弘仁元年=810年:平安時代。弘仁4年=814年> 天長元年=824年。天長4年=828年 ※嵯峨天皇の在位期間は809年5月18日から823年5月29日(Wiki)
  ※813年=弘仁4年 宗像郡大領外正七位上宗形朝臣秋足が死亡する    815年 新撰姓氏録に宗形朝臣・宗形君を大神朝臣と同祖とする    817年 正月七日 正六位上宗形朝臣勝暦に外従五位下を授ける    828年=天長5年 正月七日 外従五位下宗形朝臣勝暦に外従五位上を授ける    833年=天長十年 三月二十六日 故宗像郡大領宗形朝臣秋足の妻         難波部安良売の貞節を褒償し、位を与え戸の田租を免じる(通二p.253では天長5年)    850年=嘉祥3年 七月二十六日 外従五位下宗形朝臣豊子に従五位下を授ける(朝廷の女御。通二p.116)  氏祀から秋足までは、Wikiに在る宗像大社の歴代神主の名前と一致する。  ただ其の後の「滋光」という名前は此処には無い。  深津が秋世のニ男という事は、書いてないだけで実際は池北の方にも子供が居て、  その血筋が宗像氏本家……、と、いう事になると思われる。コレ分家図だし  ※『類聚国史るいじゅうこくし』と言うのは菅原道真撰の歴史書で、寛平4年(892年)に成立。  『宗像市史』通二p.240には此処に載ってない人物も出てくるが、  それは「大領」の系譜であって家系を示すものではないから。  その『市史』に集められた情報(ほぼ、この家系図以外全部の筈なんだが)から見る限り、  この時代の宗像氏本家の系譜は不明。  一番の理由と思われるのが、内紛による社殿焼失  宗像社はかつて神郡の一つだったが、九世紀頃になるとその特権は無くなり、  かつ国がアテにならないので十世紀以降、地方寺社へと性質を変える。(p.296)  ※842年に豊後ほかで百姓を酷使した人物が大宰府に訴えられるが、  その大宰府は855年、命に従わない国司を処罰して欲しいと中央に訴えるほど衰えていた。  新羅の海賊船による襲撃事件が869年、893年。  そんな840〜945年頃の間に、宗像三女神の位が上がったり、菩薩になったり。  (『宗像市史』通二p.247〜。ほか史料編など) 氏房…外正六位上 宗像朝臣  │ 人皇 五十五代 文徳天皇 天安元年三月  │  紀伊國和歌山県婁郡熊野権現めてうは當郡村山田郷宗上村許斐山  │  数日氏房じてさせた焉  │ 『宗像市史』通二p.584、許斐権現者は天安元年に熊野権現者を勧誘した。  │  └氏宣…宗像朝臣 少輔高見権現宮柱                --氏頼…宗像 氏するは和田高見権現宮柱    ※『宗像市史』1120年頃の氏房、1370年頃の氏頼とは違う。  また1130年頃の大宮司家の庶子、宗像氏平が許斐山に住んだ事から許斐このみ氏の一族が派生する。  (通二p.296、308、432←宗像宮社務次第)  許斐社・許斐山の位置などについてはp.418〜や471、現在の宗像市王丸と言う。
天安元年=857年
 熊野権現:熊野神、熊野大神。熊野三山に祀られる神々。  本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。  各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3000社ある。  張り合うのも何だけど、宗像大社は6000〜7000余り在る宗像・厳島系神社の総本社。(Wiki/『熊野修験』)
 

--惟賢…正六位下 塩田大六 豊後國大野郡司
 
----惟深…正六位上 民部少輔  塩田長者
   豊後國大野直入二郡む、前千町後千町領主
   陽成天皇元年秋八月叙任正六位上民部少輔
陽成天皇:第57代、876〜884年 ※894年 遣唐使停止
 ※この頃、Wikiに在る初代大宮司 宗形清氏。  宇多天皇の皇子で醍醐天皇の弟・母は藤原継蔭の娘又若子という後胤説と、  宗像氏の庶流という説とが在る。だから肝心の本家はどうした。  「宗像宮社務次第」によれば延喜14年(=914年)、3月に宗像神社の宮司になる。  『むなかたさま』p.81(by宗像大社)では大宮司は清氏に始まるとするが、それ以上は書いてはいない。  『宗像市史』通二p.277〜の方は、続く氏男・氏世ともども創作であり、氏能からだという見解を述べる。  氏男は光仁または桓武天皇の頃、天応元年(=781年)に、屋敷に社殿を建てたと言う。  (通二p.296←史一p.584鎌倉時代末期『宗像大菩薩御縁起』)   ※893年 十月二十九日 大和国の徭丁を城上郡宗像神社の修理に充て、筑前国宗像郡金埼の氏賎は良とする    894年 十月八日 筑前国の従一位勲八等田心姫神・市杵嶋姫神,湍津姫神に勲七等を授ける        十一月五日 左大弁高階忠岑の求めにより、筑前国の従一位勲七等宗像大神に勲六等を授ける    917年=延喜17年 藤原大夫左兵衛督仲平卿が太宰府に下向    939年=天慶2年 六月二十一日 西海道諸国が仏神に祈り警固に勤めるべき旨の官符に捺印する      ・藤原純友の乱(通二p.271)    941年=天慶7年 九月十五日 大宰府飛駅使宗形貞仁ら京に到るが、官符を得ずして還る   ※941年=天啓4年 宗像大神、正一位勲一等の神階を贈られる(むなかたさまp.165)    942年 閏三月十九日 源清平が大宰府に赴任(通二p.278、光源氏中納言・是忠親王の子)   ※源清平、大宰大弐在任中に、朝廷に申請して宗像大神に菩薩位を授け奉る。       ついで、筑前国宗像宮に初めて、宮司職を置き、神主を兼務させる    945年 正月十三日 源清平、大宰府において歿する    979年=天元2年 二月十四日 太政官、宗像宮の申請により、         同官に初めて、大宮司職を置き、宗像朝臣氏能を任命する(むなかたさまp.165では清氏)  ※『筑前國続風土記』に拠れば、清氏は初め光遠と言った。  『宗像軍記』では、延喜14年、源の清氏は大宮司となって宗像の姓を得、かつ筑前守となったと言う。  (by『宗像市史』史料編第一巻p.115、118。後胤説関連) ----氏永…塩田庄司 大野郡大領 ----秋男…塩田太夫村上天皇の頃天暦七年己八月
天暦元年=947年。天暦7年=954年
--┬氏貫…宗像朝臣 塩田式部太夫  │ 一條天皇二年六月  │  └惟基伯 次郎豊後国海部部伯庄領主    ┬惟續伯六郎    └女子…二人 民部次郎室、當部伯平三
永延元年=987年
  ネット情報に拠れば:豊後国海部あまべ郡の佐伯荘(中世)の成立期およびその経緯については不詳。   ※「佐伯市史」では11世紀頃大神系臼杵氏の開発と推定する、そうである   此処での佐伯氏は大永7年(1528年頃、室町時代)に大友・臼杵によって正嫡が絶え、   文禄2年(1594頃、安土桃山)大友吉統の改易によって歴史を終えると言う。支族に堅田氏が居る   ※1001〜1005年頃、『源氏物語』の執筆が開始されたとされる。(by古語辞典) ----…宗像朝臣 塩田小太郎    三條天皇長和二年三月に、大野郡氣乃邑
長和元年=1012年 ※1016年 藤原道長が摂政に
----惟安…宗像朝臣 塩田大六三年子八月
永承元年=1046年
--┬惟善…宗像朝臣 大野郡司  │ 人皇七十二代 白河天皇暦二年七月  │  └女子…二人 大野郡府内太郎
承暦元年=1077年
--┬女子…府内五郎室  │  └氏賢…宗像朝臣 大野郡 司    鳥羽天皇天永三年辰四月
天永元年=1110年
 ※荘園制度、及び地方豪族武士化の時代。  天養元年(1144年)7月、大宮司氏信氏平の争い。26日の合戦で、宗像社殿を焼失させる。  敗れた氏信が上京し、鳥羽上皇に宗形荘(宗像社領)を寄進して、  久安2年(1146年)に、大宮司職に任命もしくは返り咲く。  (むなかたさまp.83、市史通二p.289〜295前後と337)  三女神は大衆向けに路線変更したけれど、土地の権利は実は宗像氏からより上層に差し出されていた、ってトコロ。  天皇家関係者を「本家」として、宗像氏の本家はやがて平氏の側に付く。  ※1158年、平清盛大宰大弐に任命される。ついで弟の頼盛が大弐となり、現地に下向。  日宋貿易の実験を握り、九州の武士達を平家武士団に組織する。(通二p.307)


 ※大野郡と直入郡なおりのこおり:Wikipediaに拠れば共に『豊後国風土記』、『和名類聚抄』に記録が在る。
 それぞれ天平12年(740年)頃までに、承平年間(931年〜938年)に成立。

 当の二郡は平安時代の後期以降、大和の大神おおみわ氏の流れを汲む大神おおが氏の本拠地で、
 大神良臣が仁和2年(886年)に豊後介を任任じられ、その子庶幾が大野郡領、
 その子の惟基が豊後大神氏の始祖となったとする説と、
 豊前に入国して宇佐神宮の創祀に関わった大神比義および大神氏が、
 在来の豪族だったらしい宇佐氏と争い、敗れた為に宮外に土着した説とがWikiに以下略。

 惟基の子の一人栄基が領地の名称である「大野」を苗字とした事が、豊後国の大野氏の始まり。


 本ページの系譜の方は:惟善(一人目)の兄 秋足の死が814年、仮に70歳で計算すると30歳の頃774年、
 平安初期には豊後に居たので以上の大野氏、豊後大神氏とは別のモノと思われる。
 


 宇佐と言うのはさり気なく、書紀の一説で道主貴(=宗像三女神)が最初に降り立った処である。

 ※中井王:前豊後介。承和9年(=842年)に以下省略。
 「介(次官)」と言うのは四等官で、国司の第二位。守(長官)の次の位。
 「前」って事は……。此処に載ってるノは郷の領主だから其の下だよな。郡司か。



 ※佐伯氏:別説に拠れば大神氏・緒方氏の後裔であると言う。(by武家家伝)
 大神氏の祖大太(惟基)五代の孫、緒方三郎惟栄(または惟義)が平氏に属して常陸に配流され、
 のち赦されて佐伯庄に住し、その子孫が佐伯氏を名乗ったという説で、
 宇佐八幡宮の大宮司・豊後大神氏の出身である事を肯定し、緒方流かどうかは疑っている。
 (この家計図に拠れば、惟義は惟基の兄の子孫。)
 
同情報に拠れば惟基は、『平家物語』で高知尾明神の神子、
 『大神氏系図』『大友興廃記』等で祖母嶽大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた神子、
 だというのをただの神格化説と述べている。
 大神惟基と海賊・佐伯是基とが同一人物だろうという説と、
 緒方氏の代表紋「三つ鱗紋」を佐伯氏も用いた事も記載している。
 中世の文献には本庄・地頭御家人五代佐伯惟直や同族の堅田・長田・田北氏の名が散見し、
 南北朝時代の元弘3年(1333)、少弐貞経・大友貞宗らが鎮西探題を襲撃して、北条英時を討ち取った時、
 佐伯氏は大友一族の戸次・田原氏らと共に大友貞宗に従い、その後も大友氏方であったらしい。
 (これも『佐伯市史』を出展としているので、以降は同じだと思われる。)

 
 大神惟基(おおがこれもと)は幼名を大弥太(だいやた)、姥岳大明神の化身の大蛇と、
豊後の国清川村宇田枝に住む豪族大太夫の娘花御本(はなのおもと)姫との子供だという伝説があるそうである。
 
(この姫は豊後大野市清川村にある、宇田姫神社に祀られている)
 大弥太の子に、大弥次、その子に大六、その子に大七、その子に尾方(緒方)、
三郎惟義(惟栄これよし)が生まれた。惟栄は緒方を中心とする大野地方に本拠をかまえ、
源頼朝と仲違いをしていた弟の義経を迎えるため竹田に岡城を築城し一時は豊後一円から
九州各地に勢力をふるった豊後武士団の頭領となった。
 緒方三郎は、ヘビの子の末を継いだという事だろうか、背にヘビの尾とうろこの形の
 あざがあったと言われている。だから緒方(尾形)という。――とか。


 承平3年【933年頃】、朱雀天皇の時代、豊後の国宇田村・塩田大太夫介基の孫娘が
宇田姫(華ノ本または花ノ本)、――とか。(清川村、奥豊後by三郎プロジェクト)

 平安時代中期、関白藤原基経(ふじわら・もとつね=836〜891年)の次男仲平(なかひら=875〜945年、後に左大臣)が大宰府に下向し  緒方荘に居を構え、宇田(現豊後大野市清川町宇田)の富豪の娘を側女とし一女をもうけた。
 女児は「華の本」と名づけられ、後に里人から「宇田姫」と呼ばれた。――とか。
 (『大分の民話 第一集』p.220←『豊筑乱記』に拠れば、醍醐天皇の代 延喜17年、
  太宰府に安楽時建立のため藤原大夫左兵衛督仲平卿という公卿が九州に下向。
  領地 豊後国緒方生、一人娘 華の本)


 豊後の大神(おおが)氏は、阿南氏、臼杵氏(戸次氏、佐伯氏、緒方氏)、大野氏、稙田氏、十時氏など37氏の祖。
 大神(おおが)の祖は大和大神氏(おおみわし)であり、その分流である大神良臣が仁和2年(886年)に豊後介を任じられた。
 (中略)
 やがて生まれた子は大蛇が言うとおり男児で、祖父から名を取って「大太(だいた)」と名付けられた。
 男児は成長が早く、7歳で元服。大太は冬夏かかわらず一年中手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太(だいた)(胝大太)」と呼ばれたという。
 胝大太こと大神惟基は、のちに肥後の菊池の婿となり、5人の男児をもうけた。
 ・長男:高千穂太郎政次。日向国臼杵郡高千穂郷を本貫とし三田井氏の祖となる
 ・次男:阿南次郎惟秀。豊後国大分郡阿南郷を本貫とし、阿南氏の祖となる
 ・三男:稙田七郎惟平。豊後国大分郡稙田郷を本貫とし、稙田氏の祖となる
 ・四男:大野八郎政基。豊後国大野郡を本貫とし、大野氏の祖となる
 ・五男:臼杵九郎惟盛。豊後国海部郡臼杵荘を本貫とし、臼杵氏の祖となる
 佐伯氏の子孫には、大神惟基の出生伝説を裏付けるかのように、「鱗(うろこ)」が出たという。
 あかがり大太の母が大蛇から授けられた太刀は「巴作太刀」と呼ばれ、豊後佐伯氏に伝わった。――とか。(by名刀幻想辞典)


 また大蛇の居た山は今の大分県と宮崎県の境でもあるので、↑の伝説は宮崎県の神話でもあるらしい。
 それを紹介したページに拠れば、昔、添利山(そほり山・祖母山)の麓の塩田の里に大(だい)太夫という長者が居て、
 その家に花の本(もと)という一人娘が居た。
 大分・豊後で平安時代から名を知られた大神氏の祖は大太惟基で、その子孫が後に高千穂を治めた三田井氏の祖であると伝えられている、
 とも「平家物語」から引用している。
 (祖母山には神武天皇の頃のエピソードを元に、祖母嶽大明神が祀られていると言う)(byみやざきの神話と伝承)

 大神惟基には神碑が存在。
 豊後国の山里に住んでいた娘(「平家物語」では名が記されていないが、
「源平盛衰記」では塩田大太夫の娘、「九州治乱記」では藤原仲平の娘、
「大神氏系図」では藤原伊周の娘とする。)
 三田井氏、阿南氏、大野氏、臼杵氏、佐伯氏、戸次氏、緒方氏、朽網氏、大津留氏, 橋爪氏、高知尾氏、稙田氏、賀来氏、野尻氏、三重氏、田尻氏、野津原氏、高千穂氏、 大神氏、堅田氏高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏、など大神姓37氏の姓祖とされる。
 中でも阿南氏、大野氏、三田井氏は、おそらく誕生し900年以上の歴史をもつと見られ、
 豊後國でも最も由緒のある姓氏である。
 豊後國が大友能直に与えられ、建久7年(1196)能直の弟 古庄四郎重能(フルショシゲヨシ)が豊後國入りした時、
 大神一族、特に阿南惟家・阿南弥次郎家親の兄弟、大野九朗泰基などが激しく抵抗したと言う。
 (この三人は豊後國守護職に補任を任じられた中原親能(ナカハラチカヨシ)の派遣した源壹(ミナモトノサカン)に誅伐される。)

 917年の頃、藤原仲平が天皇の命令を受け、九州筑前国大宰府に安楽寺を建立する為に下向し、
 豊後の国緒方荘に館をかまえた。その頃、緒方庄宇田の里に塩田大太夫という歴代同名を称する富豪が
 住んでおり、仲平は大太夫の女を側女として、一人の女の子ができた。名前は「華の木」と名づけられ、
 成長して宇田姫と呼ばれた。――とか。

 【※その他の出典:- Sam's Diary - 、大分県豊後大野市から気ままな blog、アイちゃんの日本史散歩、、他?(順不同、未整理)】

表記注:旧字や確信の持てない字・訳


 前へ  次へ


[PR]動画