家系図B 古墳時代(〜飛鳥時代)
※呉が終わる数十年前から西晋(265〜316)が、317年より東晋(〜420)が存在
 

----阿智形君 形大領
   日本記く、人皇十六代 應神天皇が(暦)三十七年春 二月わした  
    阿智使主都加使主めた求めしむは 々〜
    へられし呉の国から与えられた工女兄媛穴織四婦女
   同四十一年春二月 天皇崩御
   阿智使主筑紫呉より筑紫胸形に至る時 胸形大神 工女等(を求め)
    故兄媛 胸形大神工女筑紫國御使君之祖なり々
   よっ筑紫宗像縫殿神社大神阿智君
     工女兄媛  

 『宗像市史』通史編 第一巻p.664〜、←『日本書紀』第十巻(岩波書店p.379〜)等に在る、
 阿知使主あちのおみ都加使主つかのおみのエピソード。
 書紀p.374にて、二人が親子で渡来人で、且つ倭漢(東漢)氏の祖先と在るので間違いではないかと。
 (『むなかたさま』p.75も参照)
 ※中国側の史書『晋書』「文帝紀」に拠ると、義熙9年=413年頃の出来事(宗像市史p.664)

 應神天皇応神天皇の事と思われるが、この天皇は15代目
 ネット情報に拠れば、大正の初年までは神功皇后を在位した天皇に含めてこれを第15代としていた。

 建葉槌たけはづち命は織物の神様。(ネット←日本書紀ほか)

 ※なお現在の縫殿神社では、四工女と応神&神功天皇、
 そして裁縫の神 大歳神を祀っている。(by福津市HP)

※応神天皇は400年頃、仁徳天皇は420年頃ぐらい(プラスマイナス数〜数十年)
----阿鳥…宗形君 筑紫宗形大領    人皇十七代 仁徳天皇より奉勅命令を受けた(暦)十四年成帝咸和    成帝りし工女三人 阿島使主難破 普より難破に至りてじる先は天皇    人皇廿二十一代 天皇十七年十月長寿百五十八にてみまか     奴山郷生家の生家に在る    大津加 神社也  阿鳥か阿島かが分かりにくい。  津加は都加だとすると……、うーん??  ……、速素戔嗚尊には、新羅へ行った説が在ったりして……  (だが大己貴の生まれる頃には日本に居た筈)  ※此処での成帝せいていは恐らく東晋の第3代皇帝。咸和は326年から(Wiki)  咸和六年だと332年頃の出来事  ※仁徳天皇が16代目で、17代目は履中天皇  ※ネット情報:古代の暦には半年一年の解釈が在るらしく、158歳は79歳  なお此の頃:『古事記』その他に拠れば、460年(雄略天皇4年)、  雄略天皇が葛城山へ鹿狩りに行った際、葛城の一言主の大神に会っている。  『続日本紀』では、高鴨神(一言主神)は天皇と獲物を争った為、土佐国に流された。  一言主を祀っていた賀茂氏の地位が、この間に低下した為ではないかとも記述。(Wiki)  あと此処のデータから計算すると、即位9年が西暦465年、17年が473年ぐらいになる  (半年一年暦の場合はそれぞれ西暦462〜463年、468〜469年頃かと)
※雄略天皇、480年頃ぐらい
--┬…宗形大領 宗形君  │ 天皇即位して九年春三月 宗像大神るは室木郷前    │ 同八月凡河内直香賜おおしこうちのあたいかたぶを通じてへられ じる、  │  みことのりして奉幤するは宗像大神  │   └雄依水沼  『むなかたさま』p.76←『日本書紀』岩波p.479。『宗像市史』通一にも。  通二(p.37〜と)p.40〜の方が詳しいと言うか、長い。  凡河内直は摂津(大阪府)の豪族、凡川おほしかふちのあたひの事か。   田心姫の兄弟神の子孫。(書紀p.106)   摂津の国という事で、この時期の某事件は畿内の宗像神社↓での事ではないか、という説が在る。   (Wikipedia・宗像神社 (桜井市)←「ムナカタの神の創祀」) 水沼君みぬまのきみは筑後国三瀦みずま郡〈美無万〉の豪族。『書紀』岩波p.210〜&『むなかたさま』p.22。  水間君とも言われ、『宗像市史』通史編に拠れば水間君の祖は阿遅古物部阿遅古連もののべのあぜこのむらじ。  史料編p.13(←『日本書紀』巻第七)では「景行天皇の皇子国乳別皇子は水沼別の始祖である」。  阿遅古は未確認だが景行天皇は応神天皇よりも前、西暦300年頃の人。  雄略天皇の頃は、10年の犬のエピソード。…それが原因で交代したとか言わないだろうな。     ----宣海…宗形大領武烈天皇二年 辰 秋七月
※武烈天皇、500年頃ぐらい ※527年 筑紫国造 磐井の乱  538年頃 百済から仏教が伝わる
----依海…宗形君 大領欽明天皇五年春三月
※539年、欽明天皇即位。欽明5年=544年頃
 

----春利…宗形君 大領敏達天皇二年十二月
※572年、敏達天皇即位。敏達2年=574年頃
----高丸…宗形君 大領推古天皇元年五月
※593年≒推古天皇1年頃、聖徳太子が彼女の摂政となる。  604年 十七条の憲法。この頃に初めて暦を使う(ワイド版歴史資料集p.24)  607年 遣隋使・小野妹子。630年に第一回遣唐使
----徳善…宗形大領皇極天皇即位して二年二月    御塚當郡奴山郷生家    娘共々、『日本書紀』十巻に名前だけ出てくる。→『宗像市史』『むなかたさま』。婿と孫もの四人セットで    高丸あるいは元麿の子、親戚に(宗形)鳥麿が居る……等の史料が在る(ネット調べ)    Wujuでは息子に赤胡、娘に尼子娘。宗像郡大領と伝える(史料も在る)。   ※642年、皇極天皇即位。645年に退位    ※645年 大化の改新:国郡制が敷かれ、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任し、     神郡の行政を司った。また遠賀郡などの郡司も兼ねる。(Wiki)   ※649年=大化5年 宗像が神郡に定められる(むなかたさまp.164)   ※655年=斉明元年、胸形君徳善の女・尼子娘が(のちの)天武天皇に召されて高市皇子を生む   ※663年=天智2年 唐・新羅が百済を攻め、白村江の戦いで百済と日本軍が破れる。    665年、大宰府ほかに山城を築く(資料集p.28)   ※667年=天智6年 近江大津宮にて、中大兄皇子が天智天皇に即位。(資料集p.29では668年)    671年、天智天皇崩御。672年=弘文1年、壬申の乱が起こる。673年、天武天皇即位   ※684年=天武13年、方君朝臣の姓を賜う。(史料編に拠れば十一月一日)   ※690年=持統4年、高市皇子が太政大臣になる。(Wiki:宗像氏)   ※690年=持統4年、七月六日 大宰・国司を遷任する(宗像市史 史料編 第一巻)   ※690年=持統10年、高市皇子死去(宗像市史 通史編 第一巻。第二巻p.82によると43歳)   ※698年=文武2年、三月九日 筑前国宗形郡の郡司は三等已上の親の連任を聴される    701年=大宝元年、大宰府は筑前国の国司の任を兼ねる。    702年、三月三十日 大宰府が所部の国の掾以下と郡司らを銓疑することを聴する        四月十五日 筑紫七国及び越後国から采女・兵衛を選び奉らせる    709年=和銅2年 五月五日 宗形郡大領の外従五位以下宗形朝臣等抒に外従五位上を授ける    711年、閏六月二十一日 宗形部加麻麻伎に穴太連の姓を賜う    713年、五月二日 諸国に風土記の撰進を命じる    721年=養老五年 正月二十七日 解工の正七以下形朝臣赤麻呂に十疋等を賜う    723年、十一月十六日 筑前国宗形郡等八神郡の郡司は三等以上の親の連任を聴す    729年=神亀6年→天平元年 四月五日 宗形郡大領の外従七位上宗形朝臣鳥麻呂に外従五位下を授ける    738年、二月十九日 筑紫宗形神主の外従五位下宗形朝臣鳥麻呂に外従五位上を授ける    740年 十一月二十一日 外従五位下宗形朝臣赤麻呂に外従五位上を授ける    745年、正月七日 外従五位上宗形朝臣赤麻呂に外正五位上を授ける        六月十四日 筑前国宗形郡大領の外従六位上宗形朝臣与呂志に外従五位下を授ける --┬烏丸…外正六位上大領 宗像朝臣文武天皇大宝二年十月  │ 御塚奴山郷生家アリ  │  宗像大社の神主として、記録に在る名前は鳥麿(Wiki)  │  ├女子庄子郎女天武天皇女御 高市皇子御母      │ 尼子娘あまこのいらつめ大海人皇子おおあまのみこ(=天武)の。  │   │ --高市皇子たけちのみこ…大和國式上郡 宗像神社  │   被補社三代格 曰く、高市皇子大政官られる  │   『むなかたさま』p.35〜、74。p.138の(下山とび鎮座の)神社。  │   あと『宗像市史』通史編 第二巻p.55〜他、父親の事も合わせて詳長。  │   Wikiに在る資料は『延喜式神名帳』『日本三代実録』『類聚三代格』など。  │  └加麻々…足白山 社      天武天皇から穴太連りしは加麻々連    足白山 孔大寺山タリ禾女日本紀タリ    『宗像市史』史料編p.32、通史編第二巻p.104、←『続日本紀』卷第五。    --加津…足白山 社 穴太連
※大宝2年=702年:飛鳥時代
 縫殿神社と孔大寺神社は、宗像大社の摂社として『週刊日本の神社12宗像大社』で紹介されている。  『宗像市史』通二p.471〜、584〜にも少し。  ※天武天皇は『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた人物で、  その編纂事業のついでに作られたらしいのが各地の『風土記』(715〜733年)。  『古事記』の完成が712年、『書紀』が720年と、どちらも天武の死後である。  大海人皇子は大海命のモデルとなった可能性が在るが、この人は宗形君の娘を妻にしたのであって、逆ではない。  ※鳥麻呂と赤麻呂(『宗像市史』史料編第一巻p.40〜46、通史編第二巻p106、114、143):  鳥麻呂=鳥丸の場合、死後20年以上経って位が上げられた事になる。  赤麻呂(赤胡?)≠鳥麻呂の場合、水沼君(か穴太連)の可能性も。  後で出てくるが、他の国・郡の郡司でも、「宗像朝臣」に成れたらしい。なので等抒や与呂志なども。  ※解工とは土木工事の技術者らしい。  



阿知使主霊帝の曾孫(四世)またはその後裔であるらしく、
 霊帝とは後漢の12代目皇帝。167〜189年。
 ……、母方でもない限り、阿智=阿知と言うのは前ページと内容が食い違う。


 ただ宗像氏(の先祖)としては、相応のコネが無ければ『皇帝』との取り引きなんか出来ない訳で。
 その意味では何となく、日中の交易の始まりを想像させる手掛かりではある。
 沖ノ島祭祀が四世紀後半から、という事は阿智親子の時期にはとっくに始まっていた訳だ。


 此の家系図を信じるなら、宗像氏と大和政権の繋がりは、朝廷そのものが始まる前、
 大国主の国譲り、いや、三女神とニニギの父親(達)の誕生その時から始まっていた事になる。姉弟だし。


 アマテラスから三女神への『神勅』も、日本と大陸(諸国)との国交あるいは対立などが背景に在る、
 と言うのが個人的な希釈だったり。
 漁場豊かな日本で、それとしての玄界灘を特別扱いする事が、『政治』の助けになる事だとは思えない。

 一説に拠れば:天孫ニニギ達の正体は、南朝鮮の方から来た渡来人だそうで。
 それはそれで、古代の世界に彼らが実在していた人間だった、という事で。なんかワクワク。
 (敗残兵? ゾンビな奥さんから逃げた話とどうレベルが違うんだ)

 脚色も含め、祖霊を神格化していった人々や、された側の真実ドラマとか。
 まぁ色々とリアルに想像できてくる感ジで面白いんじゃないかな、と。
 (ジブンだけかな??)

表記注:旧字や確信の持てない字・訳


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