家系図A 神代後半

 

 ┌大己貴おほなむち出雲國島根県出雲郡 杵築宮きつきのみや大神
 | 大国主。田心姫達の父親の息子、或いは子孫。
 |
 └田心姫たこりひめ筑紫 福 岡(県)宗像郡田嶋田島へつぐう大神
   姉妹共々、宗像社の何処の宮に祀られているかが説によって違う。
   昔は辺津宮や中津宮に居た事も在って、今は沖津宮に居る、でイイんじゃないかと。

--┬高彦根あぢすきたかひこね大和國奈良県上郡 高鴨神社。又一言主ひとことぬし
 | 他に、迦毛大御神かものおおみかみなど。阿治須岐高日子根命とも表記(byWiki・高鴨神社)
 |
 └下照姫したてるひめ同國同郡する処は神社
   またの名を高姫(高比売たかひめ命)、稚国玉。

 天稚彦あめわかひこの奥さんとその兄(で友人)。美濃國岐阜県の藍見の川に喪山を作った。

 此処までが『日本書紀』と『古事記』に出てくる神々。
 かつ例の小説に、何らかの形で出した面々。


----天日方竒あめひがたくしひがた…出雲國秋鹿郡 神社
   別名 櫛御方くしみかた命、久斯比賀多くしひかた命、鴨主かもぬし命、阿田都久志尼あたつくしね命、武日方たけひがた命。
 
 『先代旧事本紀』に拠れば、コレ以降(=宗像氏)は事代主ことしろぬし活玉依媛いくたまよりひめの子孫らしい。(ネット調べ)
 プラス『週刊日本の神社12宗像大社』から判断すると、高津姫たかつひめ湍津姫たぎつひめ(田心姫の姉妹)。

 更に調べた処:宗像氏(宗形君)(大国主命を祖とする)三輪氏の一族で、
 その三輪氏の祖先が此の天日方奇日方命
 ただし本家系図には、三輪その他の名前は出てこない。 
 Wikiの記述には三輪氏(大神氏。大三輪氏とも)の後裔に宗像氏は含まれず、
 三輪君・神君(大神)・鴨君(加茂)の祖は大物主(大国主および事代主)の子大田田根子
 ……、阿遅鉏と事代主=大田田根子-は(異母)兄弟なので、
 それぞれの子孫という意味では、宗像氏と三輪氏は同族同士、従兄弟のような関係と言える。
 けど天日方がドチラの子か、という謎は残ってるか……。

 Wiki:『出雲国風土記』に拠れば、(農耕神)阿遅鉏は
 天御梶日女あめのみかじひめとの間に雨の神・多伎都比古たきつひこを儲けたとか。

 事代主の項目では、母がカムヤタテヒメだとか、出雲でなく大和の神だったとか。
 「元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。
  葛城には、事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)があり、
  全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来となっている。」
 ……、一周回った気がするが、奇日方命の子が天日方命、その子がオシカツハヤヒ、
 その子がタケイヒカツ、その子がヤミカノコリ、――とかいう説も在ってもうゴチャゴチャ。

 事代主は『書紀』や『旧事』、玉櫛媛たまくしひめとの間に媛蹈五十鈴媛ひめたたらいすずひめ五十鈴依媛いすずよりひめ。
 それぞれ神武、綏靖天皇の皇后

 天日方自身は;神武天皇の時、食国政申大夫として橿原宮に供奉した。
 日向ひむか賀牟度美良姫かむとみらひめとの間に一男一女。(ネット←先代旧事本紀)


----飯勝命…筑紫宗像郡東江郷東郷
   素戔烏尊の四世孫、建飯勝たけいいかち命。出雲臣の娘・沙麻奈姫さまなひめを娶り、一男。
   妹に渟中底姫ぬなそこひめ命、懿徳皇后=安寧皇后とされる場合が多いそうだ。(ネット調べ)
   異説にアダツクシネとヌナタケ姫の子が建飯勝命とヌナソ姫。嘘。

----甕尻命…同 宗像郡 山田郷
   建甕尻たけみかじり命、または建甕槌たけみかつち命、建甕之尾たけみかのお命。伊勢の幡主の娘・賀貝呂姫がかいろひめを妻として、一男。
   ※雷神のタケミカヅチとは別。(byネット)

----豊御飯主命鞍手郡 室木郷 前戸神社
   豊御気主とよみけぬし命、またの名を建甕依たけみかより命、の事らしい。紀伊の名草姫なくさひめを妻として、一男。

----大御氣主おおみけぬし…同郡同郷
   大倭国の民磯姫たみいそひめを妻として、二男。

----阿田方須命…宗像大領本郡神権現森石棺阿田方須命御墳なり
  される地は當浦加計志神社也
   『旧事本紀』では和迩君の祖。弟に建飯賀田須たけいいがたす。
   子供が大田々祢古おおたたねこ大御気持おおみけもち命……で賀茂君大神君に向かう。

 宗像大社発行の社史ガイドブック『むなかたさま』に拠れば、胸形君(一族)のルーツについては
 『西海道風土記』→『宗像大菩薩御縁起』の三女神の弟神・大海命おおあまのみことの子孫だという説(p.27)と、
 大国主(=大己貴)六世の孫・吾田方隅命あたかたすのみことの子孫という説(p.72)の二通りが在る。
 (宗像市史p.64〜、p.67に同じく)
 宗形徳善が阿田方須命の子孫、という情報が在るには在るが。何処で拾ってきたんだっけ……

 ※『玄松子の記憶』では吾田片隅あたかたすみ命、阿多賀田須命と紹介され、
 和邇君の租と宗形朝臣&大神朝臣の祖(by新撰姓氏録)の二説を提示。

 ※『宗像市史』通史編第二巻p.64〜に大国主→大三輪・鴨・胸形、p.67に大海命の話。

 ※Wikiの賀茂氏(鴨氏・加毛氏)の項によると、その始祖は速須佐之男命の11世の孫の大鴨積命とする。
 天神系(賀茂県主)と地祇系(三輪氏族)が在るようで、地祇系の始祖、大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫
 大鴨積が、鴨の地(大和国葛城郡)に事代主を祀った神社を建てた事から賀茂君の姓を賜与された。
 現在この地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

 地祇系が山城国葛野に(も)進出し、神武天皇の頃、賀茂県主の祖の賀茂建角身命が現れる……でイイのかな?
 『山城国風土記』逸文では賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、大和の葛城を通って山城国へ至ると言う。
 神武天皇は天日方の頃の人でもあるから、大鴨積の父親か、その兄弟が賀茂建角身命、って事になりそうだ。
 これで、『鴨氏始祖伝』の葛城(地祇系)と葛野(天神系)の賀茂氏が(以降は)別になる、という話には矛盾しない

表記注:旧字や確信の持てない字・訳

 ※此のページの時点で「宗像」の二字が使われているが、この辺りはまず、
 この家系図自体は昭和(の戦後)に書かれた事、
 その前身もまた古代よりは後に書き続けられてきた、だろうという事を考慮する必要性が在る。
 その上で、次ページには胸形、宗形という表記が在るので、文字記録として残されていたのが其の頃から、
 本ページに在る分はソレとは別に口承などで。そして「宗像」の二字を使い始めたより後に、
 それらをまとめて書いた物が、恐らく本家系図のオリジナル。(――と、言うか初回versionかな)
 ※「大領」という言葉についても以下同様かと。(平安時代の官位)


 
 各郡・郷と神社の位置については:大体この辺。

 杵築宮は出雲大社。
 沖津宮は少し離れているけど宗像郡内。
 雲櫛神社は、大倉姫神社の一が雲櫛社と言う。

 依陀神社、前戸神社はネット検索では(宗像・その周辺には)見付からず。
 氏津加計志神社は津加計志つかけし神社の事らしい。宗像三柱大神を祀る。

 
 次ページ以降:縫殿神社は奴山ぬやまに在る。
 大津加神社は見付からず、だが(阿太賀田須命を祭る)大都加神社が福津市生家ゆくえに在ると言う。

 穴穂神社も見付からず。高見権現宮は鷹見神社の事らしいが調べ中。

 『宗像市史』通史編第二巻p.165他に拠れば、古代の宗像郡家が在ったと推定されているのが八並。

 ※この図は現代の地図で作ってるけど、昔は神湊から内陸部まで、釣川が入り江になっていた。(通二p.410他)

 地名は“オリジナル”かその元資料が書かれた時期のものか、コピーである此の家系図が書かれた時期(昭和)のどちらであるかは分からない。少なくとも神代ではない。

 昭和だとしたら、つまりその時期(1931〜1974の何時か)に阿田方須命の石棺や、次ページの墓が分かってた、って事になるけど……。
 其処までは、やっぱり普通やらないかなぁ……。(自分も現地確認まではシてないし。)

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