家系図@ 前文
八波氏系譜 自辨 八波の氏姓は宗像の朝臣、其の先の出は國造 大己貴命焉 筑紫國の宗像の、邉津宮に座す田心姫命を娶りて一男一女を生みませる 男は曰く阿遅鋤高彦根命、妹は曰く下照姫命 其の孫は曰く筑紫國の宗像阿智 而して人皇十六代 應神天皇の即位して三十七年の二月、 阿智君が爲すは使主、呉國へ渡り工縫の四婦女を自呉 貢ぐは我が日本へ、乎奉我 天皇焉 宗像の大神が先に工女(を求め)矣、於て 此の工女以兄媛を奉るは 宗像大神矣 於今の奴山郷に座す縫殿神社、則ち是れ也 阿智君の八世の孫は曰く胸形大領徳善焉 徳善は二男一女を生育し、男が称する(名)は鳥丸、爲するは宗像大領>で、次の女は曰く尼子郎女焉 天武天皇の皇妃に而て、高市皇子を生み、皇子は大和國の城上郡にて、宗像大神に被補する社務乃矣 徳善十九世は曰く緒方三郎惟義、爲豊後國の大野直入ニ郡にて爲するは大領焉 元暦二年三月 惟義が筑前國遠河郡の於山鹿城にて追うは平氏軍矣 平氏は長門國の檀浦へ矣 惟義が属するは梶原景時の軍矣 惟義は違えて景時の意、而も本國の豊後に歸る矣 正治元年 従■言惟義が幽されるは鎌倉府の扇谷 一日 頼朝公が語る、惟義に曰く「我に有るは一男、曰く称するは乃市法師矣 不曰が豊前豊後の欲を爲るは蔟頭 今年で十八也 諱を改めて大友判官 能直矣 近々叙地へ可趣矣 能直 相鷹有 女子を可妻、惟義は可媒之矣」 惟義が諾えて曰く、「我が族の宗像氏實に品女の有るは二人、其の一人を能直の可妻焉」 惟義が依りて媒し、賞を賜るは本領ニ郡地矣 本 國に歸りて其の後、宗像姓氏實の次女を娶らせるは能直に矣 其の後、能直はニ男二女を生育す矣 惟義はニ男三女を生育。 長は曰く惟保、裲する(号)は緒方庄司、次の二人は女、四男は曰く惟晴、称するは緒方兵部丞矣 健保三年三月、能直の二男の大友右衛門次郎能泰が宗像氏國の爲るは名の跡、而田嶋に来たる 惟晴は爲侍童を随従して来た矣 能泰が諱を改めて称するは宗像氏能矣 建保四年二月、宗像四十一代目の被補の社務乃に(なった)矣 翌五年四月、宗家の大友左右衛門太郎能業が早世し乎、氏能は府に歸った矣 於是、叔父が義経の一男、臼杵静の子が生んだ臼杵太郎も、随行して府内に歸った矣 惟晴の父興 惟義が保ち爲する事は、 宗像の臣に属する事 【?】 惟晴の十三代先祖の秋足(の家)は、嫡子氏房の代、 天安元年三月より紀州の年婁郡 熊野権現の■請されるは村山田郷宗上村 許斐山に乎 以って其の所縁而 惟晴の六代孫の惟深が被補・熊野権現の社務乃矣 代わって宗上村に住んだ矣 惟保の六世の孫は曰く大和三郎左右衛門 惟頼 永正十年、宗像正氏の爲するは家臣 楢木郷に住み而食べる邑を賜るは十五町矣 惟頼の嫡子大和■女允 惟資は楢木郷に住む 當家の祖は此の人也 表記注:旧字や確信の持てない字・訳
A〜Eのメモ書き?部分の抽出ほい。なのでソレゾレ、其方の方で詳しく。 八波とは:「やなみ」とか「はっぱ」とか……読みません。 『苗字ネット』に拠ると、現在420人、その半分が自分の住んでる処に集中。 ウチが嫡流という訳でもないので、此処まで(A〜D)と同じコト書かれた巻き物が、理論上2個以上存在する(筈)。 |