⇒とっぷ
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「――さぁ、あの子を元に戻す秘薬を頂戴!」
そう言って例の五番目の姫が、脅すように持っていたナイフを突き出しました。
魔女は動じる素振りも無く、「薬は無いよ。そいつで相手の男を刺して、滴る血を、十秒以内に足にした尻尾に降り掛けるんだ」「……」「そいつをあの子が自分でやって、自分から、人魚に戻りたいと思わなくっちゃ駄目なのさ――だけどあの子に、出来るかねぇ? 愛する男を失って、三百年間、泡に成るまで生き続ける事が」
「……」
「永遠の命を夢見た者が、幾ら長かろうとも、終わりの見えた一生を生きる……そんな虚しい真似なんざ出来るかね。いったん人間に成りたくなったら、どう足掻いても、無駄なんだよ……でなきゃあの子にあげた薬を、調合をあたしが知ってる筈は無いだろ」
「みんな、泡に成ったのね?」「……」「人間と結ばれた者は居なかった! ……だから貴方は、この短剣を作り、魔術の呪いを、解く方法を……」
「……そいつは単なる、人間の剣だよ」「えっ??」
「ちょいと年季が入っているから、魔力を帯びただけのシロモノさ――そいつで心臓を突き刺せば、華奢なあの子にだって誰かを殺せる。どんなに綺麗な長い髪も、切った其処から、伸びなくなる――……」
「…………」
五番目の姫は、チラリと肩にかかるそれを見ました――王子の事を試そうとした際、思ったより酷く網に絡まってしまって、本気で難儀してしまった髪です。
王子様は、それを傷付ける事の無いよう丁寧に、ひと房ひと房ゆっくりと優しく時間を掛けて解いてくれました……だからあれ以来何となく、手入れに時間を掛けてきた髪です。
「……人間なんて」その姫は呟き、言いました。
「すぐに死ぬ人間の事なんて、あの子もすぐ、忘れるわ」
「アンタは忘れられたとでも言うのかい」「ええ」
娘は無造作にその髪を切ると、ナイフは姉に、髪の毛は老婆に手渡しました。
ひとりひとり、首の後ろ辺りで切っては上の姉へと渡していきます。
そして彼女達が岩屋を出た頃、海上では、いいえ王子と人魚姫が訪れた国のお城では、歓迎のための、華やかな式典が三晩は催されていた頃でした。王女様は教育のため、遠くの寺院に預けてあって、それで登場が、遅れていたのです……二人はいつ自分達の事を言い出そうか、ヤキモキしながらもずっとその素晴らしいイタズラを仕掛ける瞬間について考えていました。
やはり王女が現れた時がちょうど良く、待望のその時が来て、人魚姫は(嗚呼、とてもステキな御方だわ)と、その人を一目見て喜びました。上品でそつなく、美しい方です……きっと仲良くなれるに違いない。そう思うと、一瞬王子の事も忘れて胸が高鳴るようでした。
彼と彼女と、恐らくは彼女の夫になるだろう誰かと自分で、素晴らしい未来が開けると……娘はその時まで、確かに思っておりました。
「……貴女だ」王子は低く言い、それはすぐには、誰にも聞き取れませんでした。
「貴女だ!!」
突然声を張り上げると、彼は娘が見た事も無いような輝かしい笑顔で、呆然とする彼女の隣をすり抜けて王女様の許に向かっていました。
「貴女だ――あの時僕の命を救ってくれた、あの修道院の貴女だ!! 僕の――……」
王女様は驚いて目を見開きましたが、すぐにご無沙汰です、と会釈をして照れくさそうに微笑みました。
王子様は娘を見て、「喜んでくれ、拾いっ子〈マイファインディング〉――」と朗らかに祝福の言葉を言うよう促してきます。
人魚姫の目の前が真っ暗になって、轟々と、荒れ狂う高波が王子の乗っている船を襲っていました……月明かり途切れた真っ暗な夜で、人魚姫にしか、深い暗黒の海へ沈む王子様を助ける事が出来なかったのです……娘は出来る限りの高台へ昇ると、硬そうな枝を払い、一目に付きそうな開〈ひら〉けた部分の森の空間へ、王子の体を横たえました。
誰か一人の娘が来て、一旦去ったけれど今度は大勢の人々を連れて来て、それで王子様の身を連れて行ってしまったのを見て、海底に戻り海の王様のお城の真っ赤な花を植えた自分専用の花壇で、毎日寂しく、花々が荒れ果てていくのも構わずにジッと物思いにふけっていました。
『どうしたの。……ねぇ、何が在ったの』
姉達が鬱陶しいほどに聞いてきて、それでも、なかなか言えなくて――いい加減言わなければ済まなくなって、それでようやく、口に出して――
姉達とそのお友達の人魚達が、それから程なく、彼の居る国とお城の方角とを教えてくれて。だけど足りなくて。
人間に成る方法を知るために、恐ろしい渦と不気味なポリプの森を抜け、魔女に自慢の声を出す舌を切られて。
そうして、激しい痛みと恐ろしい運命を伴う薬を飲み干して。
――王子のそばで、本当は自分が助けたのにと思いながら、まだ、その人を想っていた彼からその人の事を聞いて――……
「僕の拾いっ子さん〈マイ・ファインディング〉?」
其処で人魚姫の思考は、元に戻りました――君はあの人に良く似ている。その言葉を、娘は思い返したのです。
――似ているなら。
花嫁たる王女と自分が、似ているなら――例え結婚式の間だけでもいい、右手を彼が花嫁の胸に当てて愛を誓えば、娘は永遠の命を分け与えられた『人間』に成れます。
(そうすれば――……)
王子様はさも当然のように、娘にも花嫁の仕度を手伝っておいでと言い渡しました。
それは本来なら娘には悲しい事の筈でしたが、今のこの時には、この上も無く好都合の命令でした。
「……おいで。見付けられたお嬢様。」
娘はお城の中に入ると、部屋に入る直前で、踵を返し、何か利用出来る物が無いかと探しました。
祝賀会用に、大きな樽が一杯積み上げられて並んでいます……少女は棒を一本持ってくると、てこの原理で、何とか端っこのひとつを外しました……途端にガラガラ崩れた樽が、大きな音を立て、人々が大慌てで飛んできます。
その時にはその場を離れていた娘は、無人に成った部屋に入って、花嫁のドレスとベールを、盗み出しました――元々人の居なくなっていた上の階に逃げ込んで、其処で急いで、白い豪奢な衣装を着ます――それから彼女は、コッソリと下の階に戻ってきて、何食わぬ顔で人々の前に姿を現わそうとしました。ただでさえベールで隠れています、王女様の事は、お城の人々でさえ五年も離れられていたのでよく知る者は居ないのです――そう自分に思〈い〉い聞かせながら、ふと、彼女は王女様自身を何処にも隠してなかったのだという事実に気が付きました。ドレスを盗み出す事にばっかり夢中で、気が付かなかったのです――
「どうしたんだい? 僕の拾いっ子さん」後ろから王子様の声がしました。
人魚姫の心臓が、思わずと飛び出しそうなほどに飛び上がって――……
「何してるんだい? かわいい拾いっ子〈マイファインディング〉」
恐る恐る振り向くと、王子様はいつもの優しいその顔で、穏やかに微笑み、青ざめてビクビクする彼女を思って言いました。
「……怒ってないよ」「……」
「……綺麗なドレスだから、自分でも、とても着たくなったんだよね――それとも花嫁さんに、憧れていたのかな?
――ゴメンね、こんな事になって――……」
娘の頭に手を当てて言う王子様は、すまなさげで、でも、やっぱり何処か、小さい子に言い聞かせる父親か兄のようでした。
娘は泣きたくなりましたが、しかし、人魚の彼女に涙は出ません。
「――さ。みんなを騒がせてしまったお詫びに行こう」
王子様は彼女の手を取り、花嫁の仕度のための部屋へと娘を連れて行きました。
ホッとしたような侍女達や、王女様が、笑っています――王子様が礼をすると、娘も倣って、謝りました。
それではと部屋を出て行く王子に、娘は待って、と言わんばかりに服の裾を摘まんでいました。
振り向いた王子に、(何で……?)と、万感の想いを込めて問います。
何でこういう事に成ったの――
「……嗚呼、イタズラのバレた理由かい? 君が後ろからとは言え、僕に分からない訳、ないじゃないか」
ボクハキミヲアイシテルンダカラネ――王子様の目はそう言っておりましたが、しかし、これも娘の願う愛の形ではありません。
(――嗚呼、これで全て、最後なんだわ)
その後結婚式が開かれて、祝いの席で、人魚姫はこれまでのどんな時よりも上手に、誰よりも素晴らしく踊っていました。
夕刻に船が出港し、王子様の故郷へ向けて、彼と花嫁と娘の乗ったそれは行きます……薄い月明かりに照らされて、娘はいつか、楽しい空想にふけった場所でボンヤリと水面を眺めていました。
船の縁に生じる泡が、海に混ざり、彼女の恋を儚く終わらせていくかのように消えていきます……この真っ白い泡のひとつに、彼女はもうすぐに成って死ぬのです。
その時波の一部が盛り上がり、次いで別の一部が、合計五つの頭が海面に出て来て、「人魚姫!」と彼女の事を呼びました。
「間に合ったわ――さぁ急いで! この剣で王子を殺すのよ!」
一番上の姉が、持っていた何かを船に向かって投げました――人魚姫の後ろで木の壁に当たって、小さな音を立てて床に転がります。
「拾うのよ! 早く!!」娘は髪の短くなった姉達を、幻でも見る顔をして見つめています。
「魔女と取引してきたわ――私達の髪の毛と引き換えに、王子を殺す剣をもらったの。その剣で王子の心臓を突き刺して、新鮮な血を足にかければ、貴方は人魚に戻れるのよ!!」「……」
人魚姫は、呆然とそのナイフの方を向いて見下ろしました。
「再び三百年もの長い時を生きましょう。貴方がどんなに苦しもうとも、私達は、貴方が生きて戻ってきてさえすればそれでいいわ。」
「――さぁ、急いで!! もうすぐ夜が明けてしまう、今のまま貴方が朝日を浴びたら、心臓が破裂して泡に成る!!」
ドキドキと心音がおかしい事を、彼女は確かに、感じていました――虚ろな目でナイフを拾い上げ、ふらふらとおぼつかない足取りで、王子と王女の眠る、紫のカーテンの在るテントの寝室へと、行ったのです――姉達はそれを見送ると、再び海へ、潜りました。
夜が白々明けてきて、輝く海面から、血の付いてないナイフが一本ゆっくりと降りてきます……五番目の姫がそれを掴み、コッソリと、姉達の後ろを離れました……程無く日が高くなり、王子様達が、姿の見えなくなった娘を一生懸命に探しています……泡から空気の精に成った人魚姫は、気付かせぬまま、花嫁の額にキスをして……そのまま新しい仲間と共に、何処かへ飛んでいってしまいました。
――何でも、良いお子様を一人見付ける事が出来れば一日分早く、悪い子供だったりしたら一日分遅く、永遠の命がもらえる事になるのだそうです――思慮深くとも後先は考える訳ではない娘の事、果たして三百年後に、めでたくそう成っているのやら――……
……そしてそんな事は知らない深海の海底では、かつらを被った魔女が、受け取ったナイフを棚に直しながらキヒキヒと厭らしい感じで笑っていました。
「来ると思っていたよ――教えてあげる。人間に成る秘薬の調合のやり方も、もうひとつの人間に恋した人魚の御話も」
何しろアンタは、此処からずうっと、離れなくなるんだからね――言葉を投げ付けられた人魚は、虚ろな目で、魔女の被った綺麗な髪のかつらを、じっと見詰めていたのでした。
Fin.
21:40 2008/09/11
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