とっぷ

拾いっ子の取り換え劇 〜書き換え人魚姫〜

 「おいで! かわいい拾いっ子〈マイファインディング〉。」
 王子様が呼びますと、娘は青い瞳を輝かせ、絹で出来た上等のドレスの裾を摘まみ上げて走って来ました。まだ幼さは残っていますが、たいそうきれいで、実際、お城の侍女にも貴族にも、これほどの美人は居ませんでした。
 「見て御覧……あの船に乗って、隣の国に行くんだよ。」
 元々立派で豪華な船が、更にきらびやかに飾り立てられています。
 お城は海辺のすぐ側に在って、乗船場も、ほとんど白い壁の建物と繋がっておりました。
 二人はベランダに居りましたが、もし羽根が在り、其処から飛び降りる事が出来たのならば、甲板に着地する事が出来るだろう……そのくらいすぐ近く、在りました。
 けれど二人には羽根は無く、娘には声も、無かったのです。
 「あの船に君も、乗っていくんだ……名目上は単なる、見聞の旅だ。無理に婚約させられる言われは無い」
 王子様は、娘に結婚の約束をしていました。
 本当は好きな人が居て、娘はその事をとても悲しく思うのですが、しかし寺院に居る女性という事で、王子様は、その恋を諦めているのでした……代わりに好きになった娘は、その人に良く、似ています。既にそれ以上に愛しただろうと、今度の旅に、同行させる事にしたのです……ご察しの通り、王子様の旅は検分。隣の国の姫様を見て、彼女とは結婚出来ないと、そう言うために行くのです……そのために連れて行く娘の事を、王様は良く思っていません。奴隷としてならいいのですが、王妃として、息子と王宮を継がせる事、それには抵抗が在る筈です。王子も元々は妃にするつもりは無く、ただ例の人に似た娘を妹か神様が慰めに遣わしてくれた天使のように、側に置き可愛がっていたのですが……年頃に成り成人も近付いた頃に成ると、周囲が独身を許しません。
 ならば、唖〈おし〉のため素性の分からぬ娘だろうと、見知らぬ女性よりはマシ――いや娘の姿や立ち居振る舞い、特にダンスの才能に至っては、この世のどんな姫にも引けを取る事は無かろうと、王子も娘も自負していました。けれど王子様は少々、思慮深過ぎる処が在ったのです……娘を盾に結婚の話を断れば、王宮の口さがない者達が娘をどう言って傷付けるか分かりませんし、断った時点で隣の国との関係にはヒビが入ってしまいます。まさか戦争とまでは行かないでしょうが、気まずい事に成るのをなるたけ抑えるためには、自分が直接隣の国に行って、其方の王様やお姫様に詫びねばと、一人考えていたのです。
 正確にはお姫様と結婚しない事、娘以外にもはや妻とする者は居ないだろう事を、娘だけは聞いていました……けれど大勢の従者や城の者、特に婚約を決めた父君には、王子様は何も話していませんでした。服も無く浜辺に打ち上げられていた(らしい)少女を、今でも奇妙に思っている者は居ます。口が利けない事を理由に、奴隷然人形然と見ている者が、ほとんどだったのです……そのような中で娘と結婚すると言っても、恐らくは本気にされないでしょう。けれど彼女を知らない異国の地でなら、驚かせる事は在ってもかような反対は為されない筈です。とびっきりに着飾って、自分にはこのような恋人が居るのだ、あくまで親善の為に来たのでそのようなつもりは無いのだと、様々な準備もしていました。
 準備が出来いよいよ出航と成る段に成ると、王子様はそれらの事々を確認のように綺麗な娘に言い、その赤い唇に口付けしました。
 「海は怖いかい?」
 からかうように王子様は色々知っている事を申しましたが、娘は黙って微笑むばかりでした……陸地を離れ一人甲板に出ました際に、船べりから美しい海を眺めます。海底には、美しい琥珀と珊瑚の城が在って、人魚姫の姉が、泳いできます……きらびやかな船の横際に、彼女達は、並びました。
 五組〈いつつ〉もの瞳が、哀しげに、同じ色の瞳を持った娘を見上げています……妹はただ心配なのだと思って、自分が愛する人のそばに居る事、その人ともうすぐ結婚する事、そして人間に成って永遠の魂を得る事が出来るのだという幸せを、伝える事が出来ずとても残念と思いながら、せめてその手を振りました。
 人魚姫の姉は、しかし知っていたのです――王子様が、先刻船の上で「嗚呼、嵐が起きてもう一度僕をあの森に連れて行ってくれればいいのに。」と呟いた事を。
 黒い瞳が宙を仰ぎ、彷徨い、そして閉じられて『いや……』、と打ち消すように彼が首を振った事を。
 王子様は、海に近い森に在る、つましい修道院であった彼の人の事が、忘れられないままでいました。二度会っただけの、話すらした事も無い相手です。心の奥に追いやって、長く、考える事すらなかった筈の人でした……けれど何気なく甲板に出て、何気なく良い天気と穏やかな海を眺めているうちに、その水平線のまっすぐさが、不意に恨めしく歪んだのです。あの日嵐のせいでしょう、高波に運ばれたと思しき彼は、森の中の偶然にも開〈ひら〉けた部分に仰向けに倒れ、太陽の光を浴びていました。彼の世話をした老修道女が、見付けたのはあちらの者ですよ、と示したので何気なく見詰めておりましたところ、気が付かれたらしくこちらに微笑んで一礼した――その時とお城に帰る前での見送りと、たったそれだけの、邂逅でした……
 (……あの方は神に一生を捧げた身。だとしたら僕は、王子として……)
 彼の人が王子様の目には大きく大きく映っていました。
 水平線がグルグルと回って、涙の河が、海を大きく揺らしていきます……空想の中で高波と、激しい稲光とが綺麗な帆船を襲いました。唖の娘が悲鳴を上げる事も敵わずに、恐怖の表情で海に落ちます……本当は人魚だという事を露ほども知らずに、ただ、王子様は其処で頭を振りました。
 神に仕える人がそのような経緯を軽蔑しない筈も無いし、王子様自身、お気に入りの娘をそのようにするのは嫌でした。本当に彼は、人魚姫を大事に可愛がっていたのです……何処までも兄や父親のように、の愛でしたが。
 「あの男の心は、あの子の事だけで一杯なんかじゃないわ。」
 何はともあれその事だけは察した人魚は、海の城で姉達にそう言って相談しました。
 末の妹が人間に成るには、誰よりも愛されている事は勿論、雑念も無いほど彼女の事だけを王子が見ていなければならないのです。
 でも、姉達の目には王子がそうとは見えませんでしたし、実際そうではありませんでした。
 前々から、姉達は観察していたのです――そうしてどう考えても、人間と人魚が結ばれるなどという夢物語が実現するとは、思われませんでした。
 ――いえ、試しに一人が網にひっかかった振りをした時、彼は種族の違いなど気にする類で無いだろう事は、分かりました……おっかなびっくり、最初は戸惑ったようですが、人魚が困っているのを知ると、すぐに網をほどいてくれたのです。その人魚は成程、この男なら妹が好いたのも無理は無い、と思いましたが、同時に誰か、特定の人を心に秘めているようだと悟りました。
 愛した人が人魚姫なら、間違いなく人間の魂を分けてやれる――そういう男に間違いないのに、しかし、彼が思うのは別の誰か、何かなのです。このような者が一度真に想った相手を、忘れる事が出来ないだろう事を姉達は人魚姫を見て知っていました。そういう部分で、彼は彼女達の妹ととてもソックリだったのです――思えば思慮深く、控えめ気味なところも。
 本心をなかなか言い出せないところも――……
 (……もうすぐあの人は私と結婚する。そうすれば、死んでも滅びない永遠の魂を私も得られるのだわ)
 船べりに立った人魚姫は、その予感にはちきれんばかりと小さな胸を膨らませ、ウットリと海面を眺めていました。
 隣の国に着いたら、王子様が、自分を其方の方々に紹介する手筈になっています……本来なら王女様との結婚を、彼らは彼女とのそれに変え祝うでしょう。少なくとも、どんな男にも好感を持たれる自信は在ります……王女様にも、出来る限りの応対をして、不愉快にさせぬよう何度も何度も挨拶の仕方を考えていました。上等のドレスを着ていくと言っても、決して、身分を高くは見せない落ち着いた上品なデザインです……娘はそのまま王女様と友達に成れないかと、楽しい空想を巡らせていました。海の宮殿の話をすれば、きっと喜んで聞いてくれる筈です……勿論彼女の舌はもう無いのですが、空想の中では、娘は饒舌に王女様と離していたり、王子様へ自慢の歌声を聞かせていました。二人に海の底の宮殿を見せて、素晴らしいわ、とか、いい処だね、と言われる空想を、取り留めもなく考えて……済んだ紺碧の水面から、実際にその故郷が目に映るのではないかと期待して。
 じっと眺めていたところ、姉達が来たので笑って手を振ったのです。
 「あの子、よくもまぁ一人でこんな処を通れたものね。」
 水夫に見付かる前に頭を引っ込めた姉は、そのまま顔を見合わせて、一直線に魔女が居ると言う渦潮とポリプの森の先に在る暗い岩場へと向かいました。父上から、娘が人間に成った理由は、たぶん魔女の秘薬のせいだと、様々に聞かされていたからです――お祖母様の話では、その薬はもろい体のものを一滴で破裂させる毒でした。けれど人魚姫はそれを飲んだのです。姉達は互いに励ましつつ、危険な海を抜けました。醜い魔女はせせら笑い、「やはり、上手くは行ってないんだね?」――と、全てを見透かしたような顔で言いました。
 「あの子を助けて!」「自分で行ったんだよ? 止める権利なんか、ありゃしないと思うがねーぇ」
 「――いいから!」「どんな事に成ったって、あの子の心は変わらない。
  同時に運命も変わりやしない……あの子は足掻いた末に、受け入れる。その覚悟は、もうとっくに決めている筈さ」
 むっと来た姉の一人がサッと、棚に在るビンの大きなひとつを取り上げました。「これを貴方に投げるわよ!」「……どうぞ。一個くらい構やしないさ」
 「だったら、全部の棚を滅茶苦茶にするわよ!」
 五人の姫のうちの四人までが、それぞれにどくろや壷やらナイフを掲げて睨んでいました。
 「およしなさい!」一番上の姉は言いましたが、キッヒッヒ、と、魔女は面白そうに笑うばかり。
 「アンタ達、あの子をどう言った意味で助ける気だい??」「……どういう意味?」
 「王子があの子を好くようにする薬は出来るよ、効き目が切れたらすぐさま姫はバラバラに成るがね。
  それよりも人魚に戻す方が確実だ、そう思ってるんじゃ、ないのかい??」
 「……そうよ」姫の一人が言いました。
 「あの子を人魚に戻して!! あの子の声と、魚の尾を返して!!」
 悲痛な声――その姫は上から五番目で、陸に上がった人魚のすぐ上の為、一番彼女を可愛がり、そして心配していた姫でした。
 「尻尾はともかく、声は無理だね――もうあの子の舌は、潰して薬に変えちまったよ」「ッッ……」
 「この薬を喉に塗ったら、暫く、あの子のあのきれいな声が出るのさ――だけどきれいな声だけじゃ駄目さね。
  あたしの醜い顔を隠す、長い綺麗な髪が無くっちゃ――陸の男どもを惑わして、もう一度船を、沈める為には」
 「……」
 人魚達は顔を見合わせ、その昔そのような真似をする、とびきり歌の上手い人魚が居たという言い伝えを思いました。
 千と数百年ほど前に居たとされる彼女は、人間の魂を食い、寿命以上の時を生き延び続けていたと言います――尤も見た目が醜く老いるので、既にそれをやめ海の泡になって死んだと、誰もが誰も、思っていました―― 一瞬確かめたくなった人魚達でしたが、取り敢えずこらえて、「分かったわ。私達の髪で良ければあげる」「全員の髪で覆い尽くせば、貴方の醜い顔も体も、きっと分からなくなるでしょう。」と言いました。

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